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あるマネキン人形たちの海の話
ぼくには海が見えなかった。けれど、赤い水着をつけた女の子は、海が見えるといった。「沖にはヨッ卜が、かたむいて見えるわ」といった。
ぼくらのあしもとには、すこし砂がちらばっていて、大きなかわいた貝がゴロゴ口していた。ぼくは、水泳パンツ一つ、むぎわらぼうをかぶって、いちんち窓にむかって立っていなければならなかった。右手をあげて、遠くを指さしているかっこうで。
窓の外の通りには、ときおり若い女の人たちが立ちどまって、「あら、あの水着、すてきだわ」「海へ行きたいわね」などと、ため息をつきながら、ぼくらを眺めていった。
そんなとき、ぼくもなんとかして海が見たいと思う。ぼくは、赤い水着の女の子に話しかける。
「どうだい、お日さま、キラキラ海を照らしているかい。」
「お日さまなんか、どこにもいないわ」と、女の子がこたえる。
「ヨツト、ヨツトはどうしてる。」
「まだ沖に浮んで、やっぱりかたむいて見えるわよ。」
「ヨット、沈まないだろうね」と、ぼくは声をつよくしていった。
「さあ、どうかしら」と、女の子は、いつものように、ちいさな声でこたえる。
ある日、ぼくは、たまらなくなっていった。「ああ、海が見たい。きみはいいね、朝から晩まで海が見ていられるんだもの。」
女の子は、こたえた。
「まあ、絵具でかいた海なんか、どこがいいの。私こそ、いちどでいいから、にぎやかな表通りが見たくって。」
「そうか、そうだったんだね。そして、ぼくらは」と、いいかけて、ぼくは声がのどにつまってしまった。ぼくは、ぼんやり表通りを眺めた。
「あっ、海だ。」ぼくは思わずさけんだ。
沈む。浮ぶ。また沈んで。ぼくの指さしている通りの銀行の角に、草色のぼうしが、頭を下げるたびに。鉄の手の先に、ボール箱も見える。白いシャツ、白いブラウスの人の波のあいだに。けれど、誰も立ちどまらない。
「沈む、沈む」と、ぼくの指先はふるえた。
「ヨットが沈むの。」 女の子の不安そうな声に、ぼくは返事ができなかった。