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ひとり暮らし

 老いていくことのさびしさは、老人にしかわからない。病むことのつらさは病人にしかわからない。ひがみでもなくあまえでもなく、それはもういたしかたのないことのようです。
 私が最後の手術を終えて退院してきたときには、四十歳をこえて一級の障害者になっていました。そして、まず家庭をもつべきかどうかが問題でしたが、さまざまに考えて、ひとり生きていこうと思い決めました。これから予想される体の苦痛や生活の困難さを、わかちあおうというひとが、たとえ現れたとしても、そのことが私には背負いきれない重荷になりそうでした。苦痛のときは、遠慮なくひとりでうなりうめいていればいいではないか。生活のことは、ひとりでこらえていればすむではないか。あさはかであったのかどうか、そう考えたものでした。
 さて、ひとり暮らしがはじまりました。買物袋をさげてマーケットへ出かけるとき、いくつものうすら笑いにぶつかりました。やせてはいても、いかにも元気そうな中年男が、昼間からうろうろと。なんとも不気味で甲斐(かい)性なしの見本を見るようで、おかしかったのかもしれません。間接的にではあれそれらしいことをきくと、さすがに胸がふさがることもありました。
 しかし、そんな私でも働かなければ生きてはいけないのですから、なんとか自立をするためにも、うすら笑いを励みにして、六百枚ばかりの雑誌の連載にとりかかりました。
 それから、またたくまの十年でした。私は相も変わらず買物袋をさげてマーケットへ出かけていますが、熟年などという年齢をすぎたせいなのか、三十㍍も歩くと息切れがして、初夏だというのに電気毛布がなくては眠れないというありさまです。そして、こうしたことはなるべくくちにしないようにしているつもりですが、それでもうっかりくちにしては、健常者を当惑させてしまうのです。弱音を吐いていては生きてはいけないのだと思いながら…。
 「気楽でいいですね」という挨拶(あいさつ)にも、ちかごろは快くこたえられるようになりました。「おひとりでさびしいでしょう」といういたわりの言葉には、しみじみとした思いのすることもあります。孤独に耐えるということが、いかにむつかしいか。何年たってもおなじことのようです。雨の日、体の痛む日、仕事のはかどらない日、気がつくと、ところかまわず電話をかけていたりするのです。
 電話といえば、学生のころからお世話になっていたひとが、気丈で男まさりで、よくしかられたものですが、七十歳をこえられて、「さびしい」という言葉を電話を通してききました。はじめてききました。五十代の私には、はかりしれないさびしさにちがいないのです。
 交換日記があるように、それから交換電話がはじまりました。そして、たわいもないおしゃべりのなかに、命のあるかぎり、はいずってでも生きなければという思いが、おたがいに生まれてきたような気がします。
 こんな私ごとが福祉の問題にかかわっているなどとは思いません。私のひとり暮らしのお話です。
[昭和?(?)年?月?日 京都新聞夕刊「現代のことば」欄に掲載]