もくじ>エッセー>(教職についてすぐにも私は……)
〔童話作家の岩本敏男氏(昭和22年卒、山科区在住)が、出版の童話十八冊を、昨秋同窓会に寄贈されました。50年を超す闘病の中での著作活動の結実です。近況を寄せていただきました。〕
(教職についてすぐにも私は……)
教職についてすぐにも私は発病していました。一年足らずでの退職でした。在学中から詩や小説まがいのものを書いていた私は、病院通いをしながら、そうした仲間に加わっていました。
そして、「童話のコンクールがあるから書いてみないか?」と誘われるままに、戦死した兄の思い出を『背くらべ』という作品にして書いたのですが、予選に通過すると「実演」の審査があることに気付かずにして、いたしかたなくNHK大阪まで出かけて生きました。当時は高価で入手困難のストレプトマイシンのためにもと必死だったのかもしれません。それがどうしたわけか一位になってしまって、ラジオや実験中のテレビにと、微熱のつづくなかぐったりしていました。
その後はNHK京都の「子供の時間」のお話を書き、朝日放送の「ABC幼稚園」のお話、ホームソングの作詞、ラジオドラマと安直な放送作家のようになって、ついにはテレビのお笑いまで…。大阪まで出かけることが次第に苦痛になり、同人誌に書いていたものを『赤い風船』としてまとめて友人に託して入院。二度の手術で左肺を摘出しました。
長い入院生活を終えて、こんな体でどうすればいいのか、なんとかラジオのちいさな仕事をもらうことになった矢先、再度入院でした。そして、また二度の手術で退院してきたとき、私はもう四十を過ぎていました。
さて、これからどのように生きていけばいいのか…。このとき、途方にくれると笑いだしてしまうこともあるのだということを発見したものでした。
それでもしばらくして、すでに出版されていた『赤い風船』を読んだある出版社の編集者から連絡があって、『スッパの小兵太』という忍者の生きざまを児童文学誌に連載して、その五百枚を出版することができました。そして、次々と仕事がくるようになったのですが、遅筆の私は深夜までの仕事になって、ベッドを机代わりにくたびれるとそのままベッドにという日々でした。何冊目かの『からすがカアカア鳴いている』で赤い鳥文学賞を得たときには、一人では東京まで出かけられなくなっていました。「挨拶のとき泣き出しそうな顔をしていましたよ」とだれかがささやきかけた言葉を忘れません。
一昨年、私は胃の半分を切除して、今のところ仕事らしいこともできずにいますが、まだまだこれからだと思っています。
まだまだなのです。
[平成13年(2001)年5月10日 京都教育大学同窓会だより 第50号 「人物往来」欄に掲載]