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お国のために

 戦後四十年。たしかに四十年。今年もまたマスコミは、埋もれていた戦争の悲劇を掘りおこして提供してくれているのです。
 そのなかに「戦争を知っていますか・子どもたちへのメッセージ」というテレビ番組もあって、沖縄、広島、満州からの逃避行と、私たちは胸のふさがる思いをするのですが、どこか被害者としての戦争だけが語りつがれていくような、そんな気がしてならないのです。
 「平和のための京都の戦争展」を見た子どもたちから「戦争をつくったのはだれ」という声があがっていると、本紙の朝刊で読みました。戦争はなにかの災害ではないのですから、戦争への道がどうつくられてきたのかをも語らなければ、これからを生きる子どもたちへの、ほんとうのメッセージになるわけもないと思うのです。
 子どもたちの言葉にかさねていえば、農村の気のいい若者を、町工場で働くちょっとおしゃれな若者を、お国のためにと戦争への道に駆り立てて、敵として、うらみも憎しみもない顔もしらない若者たちと戦わせたのはだれ。
 そして、ちょっとおしゃれな私の兄は、昭和十九年に戦死したらしいのです。らしいというのは、知事さんからの死亡告知書には「レイテ島の戦闘に於て戦死せられました」とあっただけで、知事さんが見てきたわけではないのです。
 お国のために、コレラで死んだか飢え死にしたのか。あるいは自殺。となりのセプ島から、手りゅう弾で自殺していく音がねずみ花火のようにきこえたそうです。それを自決などというひともいますが、自決という言葉のひびきのように思いきりのいいものだったかどうか。それが私の兄だとしたら、しかたなくそうしたのだと思います。
 遺骨だとわたされた木箱には骨のかけらもなくて、それでも兄は靖国神社にまつられていました。遺族会から参拝をいわれても、父も母も出かけませんでした。出かけていって泣いて泣いて、すがすがしい気持になったからって、参拝ができたとありがたがってかえってきても、兄はかえってこないのです。それで生き残った者が、どうにか満足するなどということが、父にも母にもゆるせなかったにちがいないのです。
 「あそこへいって、なみだをながしていては、また目のまえが見えなくなりますよ」
 それが無学な母の、戦後の哲学でした。
 兄が戦死したことになってから、二十三年目の夏には国会議員から挨拶(あいさつ)状がとどさました。
 「拝啓 貴家御英霊におかれましては今般叙勲の栄光を荷われましたこと敬祝に堪えません」
 以下、私にもわからない死語まであって、母のために訳しながら、うんざりしていました。
 「それで、どういうことなの?」
 「勲章をもらうんだよ」
 「もらって、だれがさげるの?」
 そしていま「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」が、十九回目の会合をひらいて、首相の公式参拝を容認するとかです。国家、国民の代表として。
 戦後四十年。たしかに四十年。私にはまた、お国のためにという言葉がきこえてくるのです。
[昭和60(1985)年8月14日 京都新聞夕刊「現代のことば」欄に掲載]