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わたしのゆうれい

 夏でした。死者を主人公にして、あの世とこの世とをいききしての泣き笑い。いってみれば、いかにも人間臭いゆうれいたちの話を短篇集にまとめたあとのことでした。なにかのことで東京へ出かけて、出版社のひとたちと児童文学者の集まりで、松谷みよ子さんから問いかけられました。
 「どうして、ゆうれいがお好きなの?」
 遠い席からの不意の問いかけに、私はこたえました。
 「やさしいからです」
 好きかきらいかなど考えるいとまもなく、すかさずそうこたえていたのです。
 そして、この夏。お盆がちかずくと、私はあたふたと掃除をはじめていました。いつ枯れてしまったともしれない花を捨てて、仏壇を拭(ふ)き清めました。お坊さんのための座布団をひきずり出してきて干しました。お供えなども買いととのえて、どうにかこうにかお盆を迎えるかたちになったとき、仏壇のまえにすわりこんで、ふっと私は思いました。
 一年のあいだに、なんべんここで手をあわせただろうか。うっかりお茶もあげずにいて、「ごめん」などと片手でおがんですませていたりするのに、うんとむかしのご先祖さまはともかく、両親が、夢にもあらわれてこないのはどうしてだろうか。
 「成仏なさっておられるんですよ」
 そんなまことしやかな言葉など信じられないほどに、さんざん苦労と心配をかけてきた両親です。きっと出てきているはずなのです。怖がらせてはとおもんばかって、私がねむってから、こっそり出てきているにちがいないのです。そして、律義者の父は部屋のすみで、だらしのない私をにらみつけてすわっているのかも。母なぞは、散乱した原稿用紙を拾い集めたり台所を片付けたりしているのかも。
 行年二十四歳。レイテ島で戦死した兄はどうなのだろう。「遺骨伝達式」に遺骨捧持用白布と市電特別乗車券をもって出かけて、やっとの思いでもらってきた木箱のなかには、骨のかけらもなくて、白木の位牌(いはい)がころがっていたけれど、高等小学校を出てからは、工場勤めを転々として、俳優になるといって松竹の試験を受け、船員になると出かけていっては、東北のどこかの港から逃げかえった兄。そうした兄だったから、入隊していくとき、父は怒って駅までも見送りにいかなかった。そして、戦死の報のあった日の夜なか、ころげまわって父は泣いたのだが。
 お盆がくるたび、兄も海を渡ってかえってくるのだろうか。父とむかいあって、あたがいになにかいいかけては、おしだまっているのだろうか。おろおろと母は、それをなんとかとりなそうとしているのだろうか。それだけなのだろうか。
 死者は、ゆうれいはやさしい…。松谷さんの問いかけに、まっすぐにこたえたことはまちがいではなかった。やさしすぎて、おとなしすぎるのだ。あらわれて、目に見えて、両親ならば私への小言をいえばいい。兄ならばまた戦争をのろう言葉を吐けばいい。
 われにかえったとき、仏壇のまわりは暗くなっていました。私はおろうそくをともして、じっとまっていました。
[昭和59(1984)年8月23日 京都新聞夕刊「現代のことば」欄に掲載]